2011年2月22日火曜日

とあるセミナーの話

3月20日にとある団体が行った女性に対する「Forum on Comprehensive Reproductive Health Bill」というフォーラムに参加しました。ジェネラルサントスの市長も挨拶に来るわりと盛大なものでした。

市内のコミュニティから青年からお年寄りの女性が200人ほど集まりました。

最初のお話は病院。調子が悪いとチェックアップを受けに病院へ行きます。そして、お医者さんに「この薬を1日3回一週間飲んでください」と処方箋を出される。病状が酷いと入院することに。
フィリピンは薬も輸入品が多く、薬の値段も安いわけではありません。生活が苦しい人にとっては「一週間分もいるんですか?」診察代、処方箋、交通費・・・何かとお金がかかるのが病院です。

お話ではそんな病院側はもっと病気や処方箋の説明、予防方法などINFORMすることと、薬を出すほかに何か別の選択肢を提示するが重要である、と言っていました。特に、生活に余裕がない人にはオルタナティブな選択肢と予防方法を教えることは大事だと思います。もっと言えば病院にかかるまでに出来ること、手洗いうがい、食事の管理、蚊対策などコミュニティでオリエンテーションを定期的に開けたらお金もかからずに済むのかなと。

次のお話は子どもの人数についてでした。
「20歳で結婚しました。子どもが出来ました。」
「子宝に恵まれ2人目が生まれました。」
 ・・・
「・・・10人目が生まれました。子育てが毎日大変です。」
「一番したの子がやっと学校を卒業しました。やっと子育てから開放される、と思ったら今度は孫の面倒を見ることになりました。」
コミュニティではほんとたくさん子どもが生まれています。働き始めると家庭を支える助けになりますが、それまでは子育てで家から出れない、教育費がかかる、子どもが病院にかかった。など何かとお金がかかるものです。

そこで子どもの数を調整することを推奨していました。避妊をする方法として生理の説明とコンドームの説明、ピルについての説明をされました。説明は分かりやすく正確なもので、コンドームにおいてはHIV/AIDSも予防できるとあって「一番安心できる」ものとしてかなり推していました。

質問コーナーでは、性病についての質問が多かったです。どうやったら分かるのか、どのような症状が現れるのか、どうやったら移るのか、などさまざまな内容でした。講演者はその質問に1つ1つ丁寧に答えていきました。

質問コーナーのあとはインターミッションがあり昼食後解散の流れでした。

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この団体のスタッフさんと公演中話したのですが、その人はコンドームを使用したことも見たこともないと言っていました。コミュニティでコンドーム使えば?っといった会話は聞いたことがありますが、実際に普及しているとは思えないほど1世帯あたりの子どもの数は多いです。

僕はこのフォーラムの後、どれくらいの人がコンドームを買って使用するだろうか疑問に思います。きっといないんじゃないかと思っています。
避妊の推進することで過程の負担を減らすという考えは納得ですが、では実際にコンドームを避妊のため買わせるにはもっとコンドーム自体についての説明をすべきだったと思います。フィリピンでは1つ50円ほどなので実際1人1つその場で配るとか使用方法を説明するとか、具体的なアプローチをしないと「コンドームは避妊できて性病予防できてすばらしんですよー」と熱弁したって彼らが買いに行くとは到底思えないのが僕の本音です。

コミュニティの人に何かを説得するのはとても大変です。なぜなら、彼ら自身の生活が不安定で男性は収入を見つけるため、女性は家事や育児に忙しいからです。となれば、そんな人たちがもっと「おーこれやってみよう」って思えるような工夫をもっとしていかないといけないだろうと思います。それが性教育だったり何かのプロジェクトだったりいろいろですが。

集中力のないフィリピン人(失礼ですが事実だと思います)が人の話をどこまで取り入れられるか、気になります。もっとコミュニティと近い距離で接することが大事なのかなと思います。

2011年2月1日火曜日

調査の話

たくさんの人に協力してもらい、たくさんの人に迷惑をかけて私は今コミュニティに行って住民の人へインタビューしています。
私の質問は主に住んでいる場所を移動した背景とその後の変化に焦点を当てています。
分かりづらいですが、どうしてそこを離れて今ここに住んでいるのか、ここに移動して生活にどう変わったか、を深く知りたいからです。
 
今調査しているコミュニティはラントンで、そこに住む多くの人は1994年から移り住んでいる人たちです。話を聞いてみると「○○州の××で育ってきたけど、紛争でジェンサンのポロックイスラムに移ってきた。そこで野菜とか売っていたけど住んでるところの土地を地元政府が購入してから移動することになった」という話をよく聞きます。
ポロックイスラムという場所は、私が滞在しているジェネラルサントス市の公共市場の道路挟んで向かいの、海に面している場所です。
ミンダナオ島では1970年代から紛争が起こっています。マルコス大統領の厳戒令が始まった当時は多くのコミュニティでたくさんの人が亡くなっています。そして紛争から逃れてきた人が各地からポロックイスラムに集まりました。
ポロックイスラムでは大きな市場が隣にあるため、紛争から逃れた人は新しく野菜売りなどの仕事をするようになりました。昔のイスラムの人は女性の処女性をものすごく大切にされていて、女性は結婚するまであまり家から出ず男性と接することはありませんでした。そのため当時は学校にも行かない女の子が多かったそうです。
そんな女性たちが紛争によって、住んでいた土地を離れて新しい場所で暮らし、市場で物を売り始めます。「紛争で逃げて次の日家に戻ってみたら物が全部軍に取られた」とおばあちゃんが話すように、紛争で家や家具や服や家畜を失って、新しく生活を始めるために働いてお金を見つけなければなりません。そのため女性も家から出て働き始めるようになりました。

 そんなポロックイスラムの生活は、ジェネラルサントス市の漁港も近くにあり、人も多く街にも近いため働くにはいい環境でした。しかし、1994年に政府がイスラムの人が所有していた土地を購入し、住民に立ち退きを要求しました。「ブルドーザーで人がいるにも関わらず建物を壊していった」と話す人がいました。その立ち退きを要求された人たちに与えられた場所がラントンです。
 
当時のラントンはジャングルのように木が生い茂り、新しい生活は木を切って家を建てるところからの始まりでした。「ポロックイスラムの家を解体して、その木材をラントンまで運んで家を建てた」というおばあちゃんもいます。ちなみに、ポロックイスラムから郊外に位置するラントンまではジープで30分くらいかかります。
 
そんなラントンの中でも、家を移りすむこと経験を3回したおばちゃんもいます。「最初の家は警察にとられた」「次の家は大家さんが戻ってきて住むためにどくよう言われた」どの家も家賃を払って生活しているそうですが、家賃が払えなくなったり大家さんが他に利用することになれば退かなければならない、ということです。
 
今では木やコンクリートの家が並ぶラントンですが、住み始めから10年とちょっと建って新しい世代の子どもが育っています。ラントンから市場に通い物売りをずっと続けている人やラントンでバナナバーベキューや焼き鳥を売ってお金を稼いでいる人やバイクやトライシクルと呼ばれる乗り物のドライバーをして稼ぐ人や仕事がなく家で家事している人などたくさんいます。しかし、多くの女性はラントンに来てパリンキでの仕事を止めてしまいました。
 
「新しく別の場所に移って暮らしたいですか」という質問には「もっといい生活ができる場所があれば移りたい。でも子どももいるしここしか選択肢がない」という解答がほとんどです。今の生活で精一杯という印象を強く受けますし、実際話を聞いてみると一杯一杯というのを感じます。街まで行かずラントン内で仕事があればよいですが、なかなか安定した収入を得るのは難しいです。

調査を行った人数は現在13人のみですが、以前聞いた話と背景知識と聞いた話をまとめてみました。話を聞いている間は聞くのに精一杯で、その場で的確な質問や疑問ができず、いつも見直している間に「あ~これ聞けばよかった」とか「この話どうゆうこと?」と後悔することが多いです。

ついて来てくれるスタッフさんも感謝してますが、もっとまじめに手助けしてほしいものです。ミンダナオの紛争のことはもっと本読まないといけないし、その土地の生活がどうだったかとか、もっと聞き込まないといけないし、もっと言葉を話せないといけないし、課題は山ほどありますが、最後の一ヶ月ちょっとを楽しんで過ごしていければと思います。