2010年10月14日木曜日

パリンキの話 2010/10/12

 パリンキとはタガログ語で市場という意味です。
ちなみにタガログ語とはフィリピンの国語と定められています。フィリピノ語ともいいますが、フィリピンにはそれ以外にも多くの言語があり地域、民族などにより使用する言葉が異なります。モロと呼ばれるイスラム圏の民族の中でも13もの言語があり、日々言語に悩まされています。

 さてさて話を戻しますと、そのパリンキという場所は市場だけあって多くの店、買い物客、飲食店、トライシクル(バイクを三輪にして拡大した乗り物)が所狭しとびっしりと並んでいます。ジェネラルサントス市にある一番大きなパリンキには魚、肉、野菜、果物、調味料、服、携帯電話、薬、帽子、おもちゃ、DVDなどが安く売られ、夕方になると夕飯の食材を買いに買い物客でにぎわいます。

 私もよくそこに行くのですが、そこにはいろんな人がいます。内側で商売する正規のお店、野外に許可無くお店を出すサイドベンダーといわれるお店、商品や氷、水を運ぶ労働者、学校に行けずビニール袋を売る子ども、許可の無いお店を監視するデモレーションチーム、パリンキから出てくる人を捕まえようとするドライバー、値段と品を見て買い物するおばちゃん・・・。私が大好きなラントンというコミュニティからも多くの人がお金を稼ぐためサイドベンダーでお店を出しています。
 
以前光栄にもお会い出来たフィリピン研究者のお方は以前そこで実際に自分のお店を出されていましたが、そのパリンキが私は好きです。パリンキという場所では人の営みを肌で感じられるからです。日本でいう八百屋さんのような雰囲気と必死に商売する熱意、方やのんびり商売をするお店。パリンキがきれいではないとのもポイントです。いらないものが削ぎ落とされ、必要最低限なものだけで商売が成立するその感覚はまさに人間の営みです。

素敵です。

2010年10月11日月曜日

Ustazさんの話 

 今日はUstazさんの話をします。彼は42歳で妻子もちです。

そんな彼の妻が7月のある日アテビンのところへ相談にやって来ました。何事かと思っていたら、Ustazさんに容疑がかかっている、とのことです。容疑は詳しくは分かりませんが、麻薬の所持と密売です。

実際ジェネラルサントス市では麻薬の所持・使用・密売は犯罪でどの程度であっても厳しい罰則があります。Abu Sayaff Groupというテロ組織がミンダナオに存在するので、そういった麻薬関係の犯罪は多いそうです(以前聞いた弁護士の話によると)。

 そして、Ustazさんの容疑が晴れる様に人権活動家でもあるアテビンは何度か弁護士に相談へ行ったり、彼の裁判を出席したり、必要な書類を集めたりしました。そして9月の今日、午前中サランガ二洲のJustice & Peaceであった最後の事情聴取で見事無罪を勝ち取りました。彼は警官によってでっち上げられ、容疑者に挙げられたのです。29日間の牢屋生活を終え、手続きをし終わった後、無事に家族の元へ帰ることができます。

 今日の聴取のため集まった家族・親戚たちはUstazさんの無実が証明され、「大きな問題が解決して幸せ!」と嬉しそうです。彼の妻も子どもに連絡し「アテビンありがとう」と感謝を伝えていました。
 
フィリピンではこうしたでっち上げの罪が多々あります。警官や軍が無実の人に罪を着せて検挙数を増やします。ここフィリピンでは警察が十分信用されるわけではなく、特にミンダナオでは警察や軍が多く駐留しているため、それによる被害・影響も大きいものになっています。人権を守るべき警察が人権を阻害するというのはおかしな話です。


 今日は彼の釈放の日でした。午前中、裁判所で手続きをした後、サランガ二にある牢屋に行き再び手続きを済ませると無事Ustazさんは釈放されました。約一ヶ月の牢屋生活を終え、親族と話す彼はかなりの口数で牢の中にいた時と大分印象が異なりました。それほど嬉しいことなのだと思います。それと、彼の容疑は殺人未遂の誤りでした。

2010年10月5日火曜日

先住民の話 2010/09/22

フィリピン共和国ミンダナオ島にはルマドと称される先住民族のグループがいくつかあります。そのひとつのチボリ民族のコミュニティを9月中旬に始めて訪れました。

HANDSの真紀子さんとカトリック修道会へ行きそこでエドウィン神父とリコさんと合流して車で出発しました。カトリック修道会の敷地内にCMIP(catholic mission to indengerous people)という組織があり、HANDSはそこと長年協力して事業を行っています。

ジェンサンから車でサノーセのほうへ向かいそこから山を登り、出発から約2時間後着いたのがチボリのコミュニティ、タンダ村です。HANDSの事業で今年6月に水道が通され公共水汲み場ができました。水を使っている人の話を聞くと、昔は一日に数回水を汲みにコンテナを2つ3つ持ち、山を下って川で水汲みをしていたそうです。男性は農業の仕事があるので水汲みは女性や子どもの仕事でした。実際山を歩いてみて思うことは、ほんとに重労働であること。人が歩いてできた道ではなく水が流れていたところが道だと思ってしまうほど狭かったり急だったり・・・。私も歩いていて何回もこけました。そんな道を今回の水道建設まで何十年も通ってきたのは大変だったろうと心底思います。

現在は村に2つある水汲み場にたくさんの人が集まって自由に水を汲んでます。「空いた時間で他の家事をしています」「毎日洗濯や水浴びができるようになりました」など答えてくれました。村に水汲み場ができて、簡単に水が手に入るようになった便利さのほかに、近所の人が自然に集まって会話する機会も生まれたように思いました。

タンダ村から今度は別の村へ、徒歩で山を通って移動しました。到着までに1時間という道のりでしたが、着いてみると本当に数えられるほどの家しか立っていない村でした。山から見た景色は格別にきれいでしたがその村はほとんど市や町の人と交流がほとんどないように思います。その村はタンダ村と同じくチボリ族の村で人里はなれた山奥に住んでいます。水道事業もそこでありタンダと同じような効果を発揮しています。しかし、その村は他にも土地的に多くの問題を抱えていそうです。まだ世代は若いですが、日本でいう限界集落だと思います。

 では、なぜ彼らはそこに住んでいるのでしょう?そこに住み始めたのはフィリピン政府がミンダナオに入植政策を行い始めた頃から。ミンダナオの資源や土地のために、フィリピン北部・中部から多くのクリスチャンが入植しました。それにより、もとより住んでいた先住民は土地を奪われ山奥へ追いやられました。
今では生活手段がそこにあったり、言葉が違っていたりと(民族ごとで違う言葉を話します。)なかなか町へでることも難しいようです。
今後その孤立した村(実際は孤立していないかもしれませんが)がどのような未来を切り開いていけるのか、心配になります。